Shimabuku 「タコへ、サルへ、そして人間へ」 18.09.2018 #art

「私の作品は全てシンプルであるが、我々を囲む神秘的で時に魔法的なものを探し求めている。

島袋道浩は1969年に神戸で生まれ、アメリカに留学し長期ベルリンに滞在した後、日本に帰国。1990年代初頭より日常生活を写し出した写真、映像、彫刻、インスタレーションを世界に送り出してきた。繊細で、時にはユーモアを交え風変わりなセンスで、島袋は社会での人間の立場を模索し、その不穏を指摘する。9月に30周年を迎えるクレダックでの「タコへ、サルへ、そして人間へ」展では、フランスでこれまで展示されたことのない作品や新しいインスタレーション作品を紹介する。

来場者は、牡鹿でデザインされた映像「起こす」と共に展示されている新しいインスタレーション作品「起こす(イヴリー)」によって出迎えられます。これらの作品制作にはどのような背景があるのでしょうか。

2017年に私は牡鹿半島で開催されていたリボーンアート・フェスティバルに招待されました。ここは2011年の津波によって街が完全に崩壊した石巻市にあります。このような大惨事が繰り返されないよう、行政はここに5mの巨大防潮堤を立てたのですが、残念なことに海沿いの住民はもう海の景色を楽しむことができなくなってしまったのです!私が到着した時海は見えなかったのですが、やがて美しい浜辺に木や石が横たわっているのが見えたのです。以前この場所に建っていた家や建物の情景も目に浮かんで来ました。そして、ここに倒れているものを起こしていきたいと思ったのです。この経験より多くの事を学びました。「起こす」というのは人間的な動作であり、彫刻の作り始めにも言及されます。私がイヴリーに初めて到着した時に二つの建物が取り壊されていました。牡鹿で破壊されてしまった家と、イヴリーの取り壊された建物の煉瓦のインスタレーションを見せることにより、二つの関連性を作りたかったのです。

あなたの作品は常に展覧会の環境との関係性を重視して作られています。どのような創造プロセスを通るのでしょうか?たくさんリサーチされるのですか?それともご自身が感じたままの表現なのでしょうか?

私はその場所についての情報を読むのではなく、必ず訪れ、見て、理解しないといけないと思っています。ガイド情報は影響を避けるため読まないようにしています。何度か足を運び、その特定の場所で現地の物を使ってできることのみを行います。その国や土地の材料を使って調理するシェフのように、私は自分のアート作りに挑戦を課していきたいのです。イヴリーに到着した時、特に煉瓦が特徴的な街であると思いました。パリでは石造物が多くて建築の種類も全く違いますね。

あなたにとって最初の展覧会である1992年の「猿のための展覧会」からも見ることができる通り、初めの頃より屋外で制作されています。当時アーティストはギャラリーで展示するのにお金を払わないといけなかったとおっしゃっていましたが、このシステムへの批判に加え、あなた自身も経済的苦難に直面していたのでしょうか。

1990年代の日本では、展覧会資金のためにアーティストたちは副業を強いられる状況で、これは馬鹿げていると思いました。そこで自分はどのようにこの環境から抜け出そうかと考えた時に、もっと手の届きやすい作品を制作しようと思ったのです。私にとってアートを作る事とは、公共の場で人々に見せる事を意味していたからです。より多くの人に見てもらう為には一定の人にのみ向けられているホワイト・キューブの中ではなく、屋外でアートを着想することが必要なのです。初めに見つけた場所にはたくさんの猿たちがいて彼らが作品の最初の鑑賞者となったので、この展覧会を猿たちに捧げたのです。これを皮肉とは思わず、私は真剣でした。真面目過ぎたのかもしれませんがでも、猿たちがこの作品をどのように受け取るのかとても気になりました。私にとって、人間と意思疎通をとり共有することも大切ですが、猿や蛸ともそうすることが大切なのです

ニコラ・ブリオーが1998年にエポニム作品となった関係性について研究したものを出版しましたが、あなたは知らずにリレーショナル・アートの前身となる芸術運動の一員となっていましたね。ご自身ではこの立場に気付いていましたか?

ニコラ・ブリオーのことはよく知っていました。他のアーティストも似たような考えを持っていたことを当時私は知らずに、自分の作品をとても自然な方法で作っていました。1980年代と90年代の日本では、重く、暗く、自由が欠如している雰囲気が漂っていました。私はとても孤立しているように感じ、マルセル・デュシャンやシュルレアリストや、特にマックス・ジャコブ、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトーのような詩人についてよく読んでいました。彼らの作品は日本語に翻訳されていて、私も読むことができたのです。フランシス・ピカビア、マックス・エルンストやマン・レイについて興味があった頃です。このような概念的アプローチに私は魅力を感じたのですが、まだとても伝統的な教育を行っていた日本の芸術学校ではこれを発展させられないと思ったのです。そのためアメリカの学校に入ろうと思い、サンフランシスコに渡りました。

クレダックで展示されている「冷蔵庫の中の展覧会」は、サンフランシスコにいる時に最初の作品を思い付いたと書かれていますね。ルームメイトの蛸を買わないでほしいというリクエストがあったそうで

何故か分からないのですが、彼は冷蔵庫に魚や蛸を入れないでほしいと言ってきたのです。1ヶ月は我慢したのですが、ついにある日買うことを決意しました!私は神戸の大阪湾で育ったので、蛸は私の文化にとって不可欠な生き物なのですよね。ボルドーにワインがあるように。蛸は私自身のアイデンティティーの重要な一部ですが、アメリカに最初に到着した時はそれを自制していました。そして、それに再度焦点を当てたのです。

日本で蛸は性的な意味合いも持ち合わせますよね。葛飾北斎の有名な作品「蛸と海女」にも見ることができます。

もちろんそうですが、神戸では蛸は美味しい食材としか見られていません美術館に訪れる観光客がこのような象徴的な意味を考えることも理解できます。しかし、私にとってはもっとシンプルで直接的な意味を持つのです。私が猿を作品に含めた時も、ただその場にいたから作品の一部としただけなので

27回サンパウロ・ビエンナーレで展示された「ヘペンチスタのペネイラ・エ・ソンニャドールにタコの作品のリミックスをお願いした」という作品では、言語を読みかえるという意味合いにおいて、文字は映像に比べてこのような関係性が薄いということを暗示しているのでしょうか。

それぞれのアーティストが古い作品と新しい作品を展示しないといけなかったのです。私は「自分で作ったタコ壷でタコを捕る」の映像に字幕をつけて出そうかと考えていたのですが、ブラジルに着いたら多くの人は読み書きができないことが分かりました。そこで私はメッセージを伝えるのに別の方法を探し、「口述字幕」のように話を伝えることができるストリート・ミュージシャンの人たちを見つけました。私が壺で蛸を捕ろうとしている映像を見せたら、色々質問されました。私がどこで生まれ、どのようなところに住んでいたのかそれから彼らはリズムを作り私の作品について歌い出しました。これには非常に驚かされました!我々の多くは読み書きはできる代わりに記憶力が落ちていっていますが、彼らは全く逆なのです。彼らは夢を見たりストーリーを作る能力が我々よりも長けているのではないでしょうか。

あなたの作品はまた別の時間的概念も表していますね。これは神道の思想よりインスピレーションを受けているのでしょうか

日本で育った私にとってはこれは私の一部です。どちらかというとアニミズムでしょう。特に私の父はこの思想が根強く残る日本の南端にある沖縄出身で、私もたくさん遊びに行く機会がありました。石、木、イヴリーの赤い煉瓦には、私にとっては一定の生命力が存在することは確かです。それらは美しいポートレートのようで、それぞれの物体には精神と記憶があり、私は注意深く接するようにしています。私が展覧会に招待された時は、来場者が自分たちのストーリーを作ることができるような空間を作ることを心がけています。自由な考えを持つことができる場を提供する開放的な空間です。それを実現することができれば、私は成功した気がします。ヨーゼフ・ボイスに関するある逸話を私に思い出させてくれます。彼が日本で展覧会を開いた時に、キュレーターと展示室を周り温度を2度下げるよう要求したそうです。展覧会を作り上げるというのは、空気も含まれるからです。お寺に行った時の空気が違って感じるのと同じですね。

あなたは作品にレモン、トマト、植物といった、とても単純な要素を使用しますよね。日常にある物を使用することは、あなたにとって大切なことなのでしょうか?

私は良い道具がないといけない、というアーティストではありません。それよりも身ぶりが大きなパワーをもたらすと考えているのです。これが木や石を起こすという単純な作業であったとしてもです。私の作品は全てシンプルですが、我々を囲む神秘的で時に魔法的なものを探求しています。ただその物を見て表現するだけです。私はデザインに関しては直感的で、そこに偶然も重なり、どのような結果になるか分からないことが多いのです時々奇跡も起きます。あのツボで蛸を捕まえた日のように!

あなたは気候に関して何年間も暗に訴え続けていますよね。現在環境保護に関して危機を感じている世の中で、あなたの作品のとらえら方も変わってきていると思いますか?

私の作品は環境を想起させますが、人々はそれぞれ人生で与えられた明確な役割というものがあると思うのです。例えば津波が起きた後に人々は皆団結して、水や毛布を持ち寄り助け合いました。最初にこのようなアクションを取るのはとても良いことです。しかし1日の終わりには、我々には基本的な役割があります。アーティストはアートを作り、ミュージシャンは音楽を作り、肉屋さんは肉を用意し…. 私はヴィジュアル・アートを作ります。これは少し抽象的な部分もあります。私の好きなアーティストが厳密に言えば抽象芸術作品を作らない場合もあるように。フランスについて言うと、私はフィリップ・パレノ、ピエール・ユイグ、又はピエール・ジョセフらと近いように感じます。私が初めてフランスに来た時(レジデンジー・プログラムのおかげで20年前に来ました)、彼らにとても親近感を感じました。同世代の日本人のアーティストに感じるよりもです。19921993年頃の私と、人々に料理を振る舞ったリクリット・ティラヴァニージャのように。我々はお互い知りませんでしたが、似ているものを作っていました偶然にです。私の作品がどのように受け止められているか分かりませんが、私にとってこれが知っているやり方なのでこのまま続けていきます。

インタビュー: Marie Maertens

ポートレート写真とインスタレーション風景: Michaël Huard

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